四国旅行 2016年4月3日~4月12日

退職から再雇用の間の休日を利用して、四国遍路に出かけることにした。今回は徳島と高知の一部の霊場を回った。

  shikokuzentai


事前準備:
・オデッセイで車中泊できるように少し改造
・敷きマットは子供たちの保育園の時に使った昼寝布団を活用
・寺周りや街中の移動では自転車を利用するために、折りたたみ自転車購入
yeah(ヤー) スティンガー 20インチ 6段変速  YH-STA061
折りたたんだときの幅は28cm、重さも12.5kgと軽量。
自転車を載せても寝るスペースは十分確保できた。

4月2日(土)20:20富士見出発


第1日目 4月3日(日)くもりのち雨
4月3日(日)01:20淡路SA着 富士見から443km、5時間走り、SAにて仮眠。
明日は雨の予報のため当初計画を見直し、霊場1番から10番を回ることにした。
淡路SAを06:45に出発して第一番霊場 霊山寺(りょうざんじ)に向かい、白衣や納経帳、輪袈裟などのお遍路グッズを購入した。グッズは全部で15000円と意外とかかる。
境内は桜がきれい。いよいよ花遍路のスタートである。お経はお灯明、焼香、納札、お賽銭の後、般若心経と「南無大師遍照金剛」を3回唱えることにした。境内には歩き遍路の人、自動車の旅の人、団体のお遍路さんなど様々な人がいた。

霊山寺に車を止め、3番目霊場 金泉寺(こんせんじ)までは歩くことにした。お遍路道には赤字で記された道しるべや歴史を感じさせる石柱の標識がある。のどかな遍路道を歩くと心が落ち着くのでこのまま歩きたかったが、今日は10番札所、切幡寺(きりはたじ)まで行かなければならないので、金泉寺の手前のJR高徳線の阿波川端駅から電車で霊山寺に戻り、車を金泉寺近くの神社まで移動させ、そこから自転車で遍路を続けた。

お寺には山門、鐘楼、本堂、大師堂があるが、その形はそれぞれの寺によって趣が異なり、第6番札所安楽寺(あんらくじ)等では日本の寺のイ メージと異なる中国風の山門もあった。午後になって雨が降り始めたのでレインウェアを着てお寺を回った。第7番札所十楽寺(じゅうらくじ)あたりから雨が強くなってきたので、寺の隣のうどん屋で昼食をしながら雨宿りをした。どのお寺も桜が満開で、特に熊谷寺の桜は見事だった。
本日の最終ゴール第10番札所 切幡寺(きりはたじ)は山の中腹にある。高度差150mの坂道を自転車で登りきり、さらに200段以上の階段を登ると、お寺の境内からは桜越しに吉野川の平野を眺めることができた。

切幡寺から金泉寺まで今来た道を戻った。自転車とはいえ、向かい風の中の20kmの走行はしんどかった。自転車を車に積んでいると風雨が強くなり雨に濡れたので、近くの日帰り入浴の施設「やすらぎの郷」で風呂に入り、ファミレスで夕食をすませて、トイレの設備が整っている高松自動車道の鳴門西パーキングエリアにて車中泊した。


第2日目 4月4日(月) 雨

天気予報どおり雨だったので、今日は徳島城や阿波踊り記念館を見た後、午後から真野さん宅を訪問する計画にして徳島市に向かった。
徳島城の本丸も桜が満開だった。城の石垣は長野県で見られる緑色の石・・・三波川変成帯の緑色片岩でできていた。徳島市は伊那谷から続く中央構造線沿いにあり、城山の斜面には至るところに三波川帯の露頭が見られた。
雨の中、城から1kmほど先にある阿波踊り会館に歩いて行った。会館では踊りの実演が見られるが公演は午後のみのため展示品を見学した。阿波踊りのビデオや貴重なレコードがあったが、その中で芸者の故お鯉さん(92歳?)が三味線で歌う「ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ」の歌は上品で印象的だった。
会館は「眉山ロープウェイ」の山麓駅にもなっていて、映画「眉山」はこの阿波踊りが主題になっている。

城の駐車場に戻り、真野さん宅に電話をし松茂町市役所でおちあうことにした。真野さんも私と同様今年3月31日で定年退職となり、今は嘱託として会社勤めを続けている。勤務時間はフリーなので仕事の合間をぬって会社を抜けてきてくれた。昼飯時だったので二人で徳島名物たらいうどんをいただいた。店の人の説明のとおり、うどんを出汁に13秒つけて味付けをして食べるとおいしかった。
食事の後、真野さん宅を訪問した。奥さんは芸術家で絵を描かれており、キャンバスが家の中にところ狭しと置かれていた。その中に昨年真野さんに送ったりんごの絵があり、安曇野農協の箱を背景に入れた水彩画がきれいだった。徳島の人にとっては、真っ赤なりんごはとても印象的とのこと。奥さんは自然食にこだわっており、小豆島の高価なオリーブオイルを分けていただいた。真野夫妻と夕方から食事を一緒にする約束をし、鳴門のうずしお見学に出かけた。
午後になって雨があがったが、気温が高く鳴門海峡は霧に覆われていた。そのためうずしお観測船は出航を見合わせているとのことだったので、先に大鳴門橋のほうを見学した。うずしおはいつも同じところにできると思っていたが、引き潮と満ち潮で渦の発生場所が異なることの説明を受けた。橋を見学しているうちにうずしお観測船が出航可能になったので、急いで船着場に向かった。うずしお丸という高速船で大鳴門橋の下をくぐり抜けうずしおを観望した。船の近くに大きな渦ができ、なかなか見ごたえがあった。

夕方から真野さん宅の近くの料理屋で魚料理をいただいた。奥さんは鳴門出身の方で、鳴門の食材を使っている店を選んだとのことだった。 レンコンにつみれを入れたてんぷらは、レンコンのサクサク感とつみれの柔らかさがマッチしておいしいかった。徳島はレンコンの生産が有名であり、当地のレンコンつくりは農薬を使わないため、レンコン畑にはドジョウ等が生息している。そのため最近コオウノトリが繁殖を始めたとのことだった。そうした物語を聞くと、徳島のレンコンが特別なものになってさらに味わい深くなる。

20時ころ真野さん夫妻と別れ、真野さんのふるさとの鴨島にある尾池旅館に向かった。ホテルは素泊まりで4500円。ツインベットの片方を荷物置き場に利用できて都合がよかったが、浴室のカランのネジが外れて水が噴出したのには閉口した。何とか簡易的に修理をしシャワーを浴び床についた。明日はいよいよ第一の難所、遍路ころがしを歩くことになる。


第3日目 4月5日(火)くもり 遍路ころがし1日目
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鴨島から第11番札所藤井寺(ふじいでら)に行って納経をすませ、7:45にお寺の左手の山道をのぼって焼山寺に向かった。山道には昨日徳島城で見た三波川変成帯の緑色片岩が露出しており、岩の表面は濡れると滑りやすいので慎重に登っていった。山道のところどころには休憩所が用意されているが、藤井寺から6.6kmの柳水庵までは休まずに一気に歩いた。オランダ、フランスなどの外国人のお遍路さんも多かった。オーストラリアの方になぜ遍路をしているのか聞いたところ、人生を変えるためとのことだった。遍路ころがしの最高点(標高 745m)の浄蓮庵の一本杉を通り過ぎ、300m下って再び焼山寺への遍路道を登る。焼山寺の参道に近づくと今来た遍路ころがしの 道を振り返ることができた。

第12番札所焼山寺(しょうさんじ)には12:45に到着した。焼山寺で昼食をとり、ここから500m下った鍋岩地区へ向かった。お遍路さんの多くはこの鍋岩の旅館で泊まるが、こちらは明日の行動に余裕を持たせるために鍋岩から玉ヶ峠(450m)を越え、さらに10km先の植村旅館に向かった。道中の急斜面には民家が点在していたが空き家も多かった。
植村旅館には15:45に到着した。この3日間はコンビニ弁当が多かったので、久しぶりの手料理の夕食はおいしかった。植村旅館は明治のころからやっている古い旅館で、この日の泊り客は私を入れて3人で、一人の方は埼玉の僧侶の方で今回で遍路は5回目とのこと。またもう一人の方は 千葉の方で、墓石の商売をしていたが遍路をするために退職をして回っているとのことだった。旅館の女将さんの話では、最近は海外の宿泊客も多く言葉は通じないが、こんなところに泊まっても喜んでくれているとのことだった。信州には何回か来たことがあり、松川でりんご狩りも楽しんだようだ。また飯田の方と知り合いで、以前神戸に住んでいたが実家の飯田に戻って家を建てて住んでいるとのことだった。世間は狭い。


第4日目 4月6日(水)晴れ 遍路ころがし2日目

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植村旅館を7:00に出て、鮎喰川(あくいがわ)沿いに徳島市まで下る。歩行距離は約22km。
新しく買ったColumbiaのトレッキングシューズは遍路ころがしの山道には最適だったが、舗装道路の歩行では足の人差し指が痛くなり、歩行ペースを落とさざるを得なかったかった。
第13番札所大日寺(だいにちじ)には9:10に到着した。心地よい日差しの中、常楽寺、国分寺、観音寺を回り、お昼までに第17番井戸寺での納経を終えることができた。

井戸寺からは、最寄駅のJR徳島線府中駅で電車に乗り、鴨島の尾池旅館にもどった。
真野さんから鴨島周辺の見所を聞いていたので、真野さんの実家や全国名水百選の江川湧水、吉野川にかかる潜水橋等を自転車で見て回った。吉野川の堤防にはかつてお遍路さんが渡し舟で川を渡った光明庵跡もあった。
その後、明日の食料の買い物をすませて旅館に戻り洗濯をし、4日目の行動を終えた。


第5日目 4月7日(木)雨

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天気予報では荒れ模様になるとのことだったので計画を変更することにした。当初は立江駅に車を止め、立江寺から日和佐までの歩き遍路を予定していたが、車移動と決めたので少々気の緩みも出て鴨島の宿でゆっくりしすぎ、第18番札所恩山寺(おんざんじ)に着いたのは10:00近かった。第 19番札所立江寺(たつえでら)に行く道中で歩き遍路の外国人を何人か追い越した。彼らは雨の中、ザックをかついてひたすら歩いていた。立江寺で納経をすませ、当初のパーキング予定だった立江駅付近を歩いて回ったところ、植村旅館で一緒だった埼玉の僧侶の方にお会いした。昨日は徳島市まで歩き、今回はこの立江寺で打ち止めにするとのことだった。

車で移動する遍路はまったく趣がない。また歩き遍路の方を追い越すたびになんとなくむなしくなる。そこでもう少し”充実した”ルートは組めないものかと地図を広げて遍路道を確認したところ、次の鶴林寺と大龍寺は標高500mの山頂にあり、麓から山道を往復するだけでも結構の”修行”になることが判り、あわてて鶴林寺の麓の道の駅に向かった。

道の駅「ひなの里勝浦」に車を止めてパンをかじった後、鶴林寺の山道を登る。よく整備された遍路道は山道とは言いがたかったが、そこそこの急登で汗をかいた。途中雨が止み次の目的地である大龍寺方面の視界が開けた。寺は結構奥深い山の中にあり今日中にたどり着けるか不安を感じた。 麓から歩くこと約1時間半、第20番札所鶴林時(かくりんじ)には13:30に到着した。鶴林寺で納経をすませ駆け足でもと来た道を引き返した。下山の途中で薄日が差し、麓の勝浦町が望むことができた。

鶴林寺から大龍寺に行くためには、一度那賀川をくだり、また那賀川の別の支流沿いに上って大龍寺の山道に取り付く必要ある。大龍寺の山道の取り付きまでの車道は狭く、雨の日の山の中は夕方のように暗い。加えて時刻は15時を回りこのままでは納経期限の17時に間に合わないというあせりもあったせいで、路上駐車のための方向転換の際うっかりバンパーを茂みの石にぶつけてしまった・・・。先週バンパーを直したばかりなのに情けない。ともかく気を取り直し大龍寺への道を急いだ。雨の中の山道には、何匹ものサワガニ?が上がっていた。

第21 番札所大龍寺(だいりゅうじ)には16時過ぎに着いた。雨の中、寺には霧が立ち込めていた。苦労して登ってきたこともあるが、鶴林寺も大龍寺もこれまでのお寺に比べて品格があり、高野山のようなたたずまいで荘厳さを感じた。大龍寺へはロープウェイが通じており、通常、車遍路の人はこれを利用して麓に下りるが、自分はもう一度車を取りに山道を戻らなければならない。17 時近くで霧も濃かったので、お寺の方に「これから引き返すの?」と驚かれたが、参道を戻り、車で大龍寺の麓にある道の駅「鷲の里」まで移動した。この道の駅はお遍路さんの宿坊も兼ねているが、自分は日帰り入浴のみにしてその日はここに車中泊した

夕食は道の駅の近くの食堂で焼肉定食を食べた。店には蔦監督のサインボールが飾ってあったので、店の亭主にうかがうと、二人の息子さんはともに池田高校にいって甲子園に出場したとのことだった。道の駅に戻るころから雨脚が激しくなったが、なんとか今日の計画をこなすことができた。


第6日目 4月8日(金)晴れ

昨夜は雨がひどく、車の中は濡れたレインウェアなどで100%近い湿度になり、朝起きると車のガラスがビショビショに結露していた。大龍寺下の道の駅には自分以外に2台が車中泊していた。一台は大阪の車で奥さんらしき人がコンロを出して朝食の準備をしていた。車移動だけでは満足感がないので、今日は海沿いの遍路道を歩く計画を立て、まず第22番札所平等寺(びょうどうじ)に車で向かった。昨日は平等寺の納経時刻17時に間に合わず、再び平等寺からの遍路となる。

平等寺には善光寺の御開帳と同じような回向柱が立っていた。寺の住職の奥さんに伺うと、昨年本堂を改修し今年1月にその落成法要をしたために、回向柱を建てているとのことだった。境内はきれいに整備されておりとてもよい印象だったので、自分の干支にちなんだ申の切絵を購入した。
平等寺から遍路道となっている細い道を車で移動し、日和佐の第23番札所薬王寺(やくおうじ)に到着した。ここで納経をしようとして遍路かばんの中を見ると財布がない。遍路グッズを整理したときに駐車場に財布を落としたようだ。あわてて駐車場まで戻ったところ、幸い車の下に落ちていたため人目につかず大事にいたらなかった。

薬王寺で納経を済ませ、車を薬王寺の駐車場に置いたまま、日和佐駅から3つ徳島よりの由岐駅にJRで移動し、海沿いの遍路道を12kmほど歩くことにした。由岐から日和佐に続く海岸は護岸工事もなくきれいだった。海外では地元の方がワカメ?をとっていた。途中の木岐浦には、安政地震の津波の高さを示す石灯籠があった。安政の大地震は嘉永7年(1854年)11月5日に発生したM8.4の大地震で、津波が房総より九州にいた る沿岸を襲ったとされている。灯篭には「波の高さ4丈余(12m)、大地震の節には油断ないようにあらかたを記しておく」旨が刻まれていた。

海岸沿いの遍路道を約3時間歩き日和佐の大浜海岸に到着した。海岸からは桜の中の薬王寺を望むことができた。休憩も兼ねて大浜にあるウミガメ博物館を見学した。大浜海岸はウミガメの産卵保護が有名で、NHKの朝の連続ドラマ「ウェルカかめの」舞台だったことをそこではじめて知った。学芸員がウミガメを洗っていた。近年産卵のために上陸するウミガメの数は減っており、これは護岸工事などが影響をしているようだ。自然保護と人間の”生活保護”の両立は難しい問題である。

日和佐でセルフうどんを食べた後、車で室戸に向かった。途中、宍喰浦の化石連痕を見た。化石連痕は3000-4000万年前の海底にできた波の模様で、海底の砂の堆積層がプレートの移動により押し上げられて陸上に現れたものであるが、その激しい褶曲の様子がよく伺えた。室戸岬ジオパーク で室戸岬の形成の説明ビデオを見た後、弘法大師が修行したといわれる御厨人窟に向かった。ここの納経所のおばさんがカナダのバッチを胸につけていたので、どうしてなのか聞いたところ、「外人のお遍路さんで気分を悪くした方がいたので、室戸の塩飴をあげたところお返しにバッチをくれた 」とのこと。おばさんはバッチがカナダの国旗であることもわかっていなかったが、言葉は通じなくても思いやりやおもてなしは万国共通に通じるものである。室戸岬の回りには弘法大師が行水した池など大師ゆかりの名跡があるが、これらは地学的には過去海岸が隆起してきた痕跡でもあり、岬の海岸線の遊歩道を1時間余り散策して岬の生い立ちを観察した。室戸岬はまた蜃気楼と同じメカニズムで見える「だるま夕日」が有名なので日の入りまで海岸で粘ったが、水平線に低い雲があり残念ながら見ることができなかった。

夕食は室津の「民宿とさ」で”きんめどんぶり”を食べた。民宿なので泊り客も食事をしていたが、兄弟と思われる二人がいて、「稼がないのに食事をするな、娘に手を出すなと」兄が説教をしていた。宮尾登美子の小説に出てくるような土佐弁で凄みがあり怖かった。店のおかみさんはお遍路さん相手の宿をやっているが、自分は無神教だからお遍路さんには興味がないとのことだった。

国道沿いの駐車場は車の行き来がうるさいが、室戸のジオパークの駐車場は終日開放されていて、広くて静かでトイレもきれいなので、その夜はここで車中泊をすることにした。


第7日目 4月9日(土) 晴れ

今日は室戸地区の三つのお寺を回る。まず室戸岬の駐車場に車をとめ、第24番札所 最御崎寺(ほつみさきじ)まで歩いて登った。最御崎寺は岬の先端に建っているが、さすがにこの地にくるのはこれが最後だろうと思い、最御崎寺の名前が入ったお守りを購入した。お寺を下ったすぐ先に室戸岬の灯台があるのだが、その道しるべが目に入らず、灯台に立ち寄るのを忘れてしまったので、次の寺の津照寺から引き返して灯台を見学した。

第25番札所 津照寺(しんしょうじ)は地図上では海に隣接しているが、寺は小高い山(30m)の上にあった。津波のことを考えれば古い寺が高台を選ぶことは納得できる。津照寺(しんしょうじ)から室戸の漁港を望むことができた。遠洋漁業に出発する船であろうか?、スピーカから大きな音で歌謡曲を流しながら出航していった。

第26番札所 金剛頂寺(こんごうちょうじ)も小山の上にあるので麓から歩きたかったが、駐車できるような空き地がなくそのまま車で参拝した。金剛頂寺から次の札所の神峯寺に向かう途中、道の駅キラメッセ室戸で弁当を買い、海岸に下りて早めの昼食をすませた。弁当は390円だったが海の幸のおかずが豊富でおいしく、コストパフォーマンスが抜群でびっくりした。どうりでおばさんたちが何個も買いもとめていたわけだ。海岸からは室戸の海成段丘を望むことができた。

第27番札所 神峯寺(こうのみねじ)は室戸市と安芸市の境に位置し標高430mの山寺である。そこで車を途中の麓の空地に止めて歩くことにした。 参道は桜の花が満開で地元の人がお花見を楽しんでいた。神峯寺からの下山の途中、誤って前のめりに転倒し手のひらや肩に擦り傷ができたので、途中でドラッグストアを探し応急措置をして高知の大日寺に向かった。

第28番霊場の大日寺(だいにちじ)は珍しく参道に売店が並んでいた。一番寺で買った線香は柔らかなプラスチックケースに入っており、線香の本数が 少なくなると入れ物の中で線香が折れてしまうので、それを防ぐために売店で何かよい入れ物がないか尋ねたところ、「灯明→焼香→お札納め→賽銭→読経をスムーズにこなすために、皆それぞれ入れ物を工夫しているが、これでよければどうぞ」と硬質プラスチック製の線香ケースを勧めてくれたのでそれを購入した。店のおばさんとの雑談の中で意外だったのは、昔に比べてお遍路さんの数が減っているということ。昔は団体客がバスで乗り付けてきたが、今は個人で動く人が多くお店にとっては上がり少なく苦しいとのことだった。昨年は弘法大師生誕1200年ということで テレビでもお遍路さんの特集をやっていたし、外人客もけっこう多いので観光客は増えているのではという先入観があっただけに少々驚くととも に、改めて時代の変化を感じた。

第29番札所 国分寺(こくぶんじ)の前の田んぼはすでに田植えが終わっていた。高知は二期作の県だけにやはり暖かい。大日寺も国分寺にもお接待のコーヒーやジュースの自販機が置いてあり、そこでコーヒーをいただいて休憩していたので、第30番札所 善楽寺(ぜんらくじ)に着いたのは16:30だった。善楽寺の隣が土佐一宮の土佐神社だったので神社を拝観し、今日の遍路を終えることにした。その後、イオンのコインランドリーでこの2 日間の着替えの洗濯をし、”高知ぽかぽか温泉”という銭湯で入浴と夕食をすませ、五台山の駐車場に車中泊した。

五台山は高知市街の東に位置する標高146mの山で、山頂一帯が五台山公園として整備されている。 五台山には、明日参拝する竹林寺や牧野植物園、牧野富太郎記念館などもあり観光スポットになっているが、公園の駐車場には外灯がまったくなく真っ暗で、ときどきわけのわからぬ若者の車が来たりして安全面で不安だった。加えて夜中、蚊の音に妨害されあまり眠ることができなかった。


第8日目 4月10日(日) 晴れ

朝7:00に第31番札所 竹林寺で納経をすませる。竹林寺の庭園は鎌倉時代、高僧・夢窓国師により作庭されたと伝えられ国名勝の指定も受けている。庭は拝観しなかったが境内は苔むしてたいへん落ち着きのある寺であった。続いて車で第32番札所 禅師峰寺(ぜんじぶじ)に向かっ た。禅師峰寺の石段の横には海底の地層が隆起した岩が露出している。禅師峰寺より高知の桂浜方向を望むと平地の家や畑はほぼ海抜0mであり、寺の階段の地層を見ながら津波での被害を想像してしまった。続いて桂浜方面に車を走らせ、第33番札所雪蹊寺で納経を終え、ここで徳島からの”札所順”の遍路の打ち止めをした。

その日は引き続き高知観光することにして、まず桂浜に向かった。桂浜の浜辺を歩き坂本龍馬記念館を見学した。最近龍馬に関する新たな史実が見つかっているが、それを海援隊の武田鉄也が説明するDVDが面白そうだったので買い求めた。桂浜で職場向けのお土産を買い高知市に移動した。車は今日の宿泊予定のホテルに近い300円/日の駐車場に止め、高知城、寺田寅彦記念館、はりまや橋周辺を自転車で回った。

高知城は昭和23年から10年間かけて3回の大改修を行い、過去の姿を保存させている。天主からは高知市街がよく見えた。また二の丸はさくら祭りの真最中であった。
高知城の北側に寺田寅彦が4歳から18歳まで過ごした家が復元され記念館として公開されていた。寺田寅彦は明治から昭和の日本を代表する物理学者であるが、文学など自然科学以外にも造詣が深く、随筆家としても知られている。五高(熊本高校)時代に漱石と知り合い、『三四郎』の野々 宮宗八のモデルともいわれている。また門下生には中谷宇吉郎や坪井忠二などがおり、寅彦がどんなところで暮らしていたのか興味があり記念館を見学した。たいへん端整な家で、庭には大きな「かしわ」の木があり庭のシンボルになっていた。寅彦の父がお茶が好きだったようで茶室もある。 現在は記念館は市民に開放され、茶会など各種催しに使われているとのことだった。記念館の伊東さんが、寅彦の生い立ちや、奥様に次々に先立たれた苦労話などを説明してくれた。伊東さんに「土佐はたくましい偉人を多く輩出していますね」と話をすると、実は土佐の女性のほうが『はちきん』と呼ばれて強くて生活力があり「男勝り」で、その気性は土佐の男性からも脅威と思われているのだと話してくれた。山之一豊の妻は土佐人ではないが、土佐では「はちきん」の代表として挙げられているとのことだった。

寅彦記念館を見学した後、自転車で市内をぶらぶらし、高知の町並みの雰囲気を楽しみながらはりまや橋に行った。なぜここが有名なのかと思うほど橋は小さく、記念撮影をするのは、中国人、外人の観光客ばかりだった。はりまや橋近くの公園では肉フェスティバルが催されていた。また高知城から東へ約1kmにわたって露店が並ぶ日曜市も開催され賑わっていた。

この日の宿は町の中心から1.5kmほど離れたベストプライス高知を予約した。中心街から離れていることもあるが、素泊まり3000円の安さはありがたい。夕食と明日の剣山登山のための軽食を近くのスーパーで買い求め、ホテルで食事をとり、明日に備えて早目にベットに入った。


第9日目 4月11日(月)くもり

今日は 雨の確率10%以下という天気予報である。当初計画を1日早めて高知に来たのも、晴天の中で剣山に登山したかったからである。しかし予報に反し、冷たい空気が大陸から押し寄せて気温が下がり、四国の山々は冷たい強風とガスに覆われることになってしまった。

朝の段階ではそんなことは予想できす、ホテルを6:00に出発し剣山に向かった。途中ナビの情報がおかしくなり、大豊ICで下りるべきところを間違って次のICまで進んで引き返えしたため、30分ほどロスしてしまった。剣山に向かう途中で祖谷のかずら橋を見学した。朝8時前なのに通行窓口には係員がいてしっかり510円をとられた。かずらを維持するためにはこれもいた仕方がない。かずら橋から祖谷川を望むと、遍路ころがしの山道と同じ三波川変成帯の岩石になっていた。高知から徳島に入り、地層も四万十帯から三波川帯に変化していた。

剣山の麓の見ノ越までは車のすれ違いに苦労する狭い道だった。さらに見ノ越の駐車場に近づくにつれて霧が濃くなり、視界がまったくきかず、10km/h程度で慎重に運転せざるをえず、9時過ぎにようやく登山口に到着した。ガスも風もひどいので晴れるまで車の中で寝ることに決め仮眠した。11時半ごろようやく麓のガスが晴れたので、簡単な昼食をとり剣山に出発した。しかし山頂に近づくにつれてガスは濃くなり、木々には霧氷がついていた。風速20-30mくらいはあるだろうと思われる強風の中、山頂に向かったが山頂の表示板も霧氷で凍り視界も悪い。頂上の山小屋の影で風をよけながらガスが晴れるのを20分ほど待ったところ、ようやく山容を望むことができた。剣山は名前のイメージとは異なり山頂は平らで、また夏山シーズンは8合目くらいまでリフトで登れるので、家族登山を楽しむことができそうな柔らかな山である。しかし高さ1955m程度の山とはいえ、今回のように冬山に近い天候の中の登山は、なかなか侮れない山だと思った。

剣山を降りるころには日がさし始めて天候が回復した。こんなことなら田中陽希君お勧めのひばり食堂でカツどんを食べ、午後から登山にしてもよかったと思いながら、麓の剣神社を参拝し三好市まで下ることにした。

祖谷の急斜面には民家が点在し、その光景は遠山の下栗とよく似ていた。途中、道路の全面工事に出くわし1時間の通行止めがあったので、その時間を利用して祖谷のそばを食べるとともに、祖谷民族資料館を見学した。資料館の陳列品の多くは、かつて飯田の実家で農作業に使っていたものだったので 余り珍しくはなかった。館内は私ひとりだったので資料館を管理している方が詳しく案内をしてくれた。彼女も祖谷地方で生まれて育ち、こちらに嫁いできたとのこと。彼女の説明によれば、祖谷の民家は急斜面にあるので、民家の行き来は尾根づたいに移動するのが合理的なのだそうだ。なるほど自動車の便を考えると下まで降りなければならないが、歩くならわざわざ下る必要はない。祖谷は米がとれないので、かつては蕎麦やひえ・あわが主食だったそうである。今はようやく道も拡幅されたが、それまでは車同士のすれ違いができず難儀したとのこと。彼女の二人のご子息はすでに学校を卒業されたが、この地を離れているようだ。伝統を守るといってもやはり生活できなければ地元に残ることはむずかしい。

祖谷から下ること1時間、ようやく大歩危峡に到着し峡谷の風景を眺めた後、今夜は高松道の吉野川SAで食事と車中泊をすべく車を走らせた。


第10日目 4月12日(日)四国最終日 晴れ

吉野川SAの朝は1℃くらいまで冷え込んだようで、これまで暖かいところでの車中泊だったのでさすがに寒かった。朝6時にSAを出発して弘法大師生誕の地の善通寺市に向かった。善通寺の周り半径10km内には6つの霊場があるが、今日はそのうちの4つを回ることにした。まず第74番札所 甲山寺(こうやまじ)の駐車場に車を停め、第72番札所 曼荼羅寺(まんだらじ)、第73番札所 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)、そして四国八十八ヶ所の総本山である善通寺を自転車で回った。天気は快晴に近かったが風が冷たかった。第73番札所 出釈迦寺からは瀬戸内海方面が望めた。善通寺市の北に位置する緩やかな山並みも青空に映えてきれいだった。この山並みは五岳山と呼ばれ、古くから歴史と信仰の山として知られており、第75番札所 善通寺は五岳山善通寺という山号がついている。善通寺は真言宗善通寺派の総本山だけに境内は広く貫禄があった。弘法大師生誕の地である善通寺のお守りを購入した。

善通寺から甲山寺にもどって車に乗り換え、カメラのキタムラに寄って転倒の際故障したカメラを修理し、琴平の金比羅さんに向かった。金比羅宮に登る参道の両脇には土産屋がたくさん並んでいるが、お土産を買う人は少ない。観光客の半分近くは中国人と外人で、外人は土産を眺めるだけで買わないと店の方が嘆いていた。

麓から本宮までは785段の石段が続き、上りきると海抜250mの高台に到着する。金比羅の本宮は大物主神と崇徳天皇が祀られており、本宮の高台からは讃岐平野と讃岐富士を望むことができた。金比羅さんは海上交通の守り神としても信仰されているので船にかかわる奉納が多く、今治造船株式会社が大きなスクリューを奉納していた。本宮の神札授与所では「幸福の黄色いお守り」を売っていた。参道のみやげやの方の話では、ここ10年くらいの間に「パワーが出る」という黄色が金比羅カラーになったそうで、その結果お土産の色も黄色のものが増えてきたとのこと。そこで”パワー と幸福”を招く黄色の招き猫を買って家の土産とした。金比羅宮を参拝後、琴平温泉の琴参閣で日帰り入浴した。入浴料はバスタオル付きで900円と少々高かったが、湯船は広くてきれいでサウナなどの設備も充実しており、足の疲れを取ることができた。

入浴の後、満濃池に向かった。讃岐平野はため池が多いが満濃池は日本最大の灌漑用のため池であり、空海が改修したことでも知られている。周囲約20km、貯水量1,540万tとのことだが、ため池というよりダム湖のような感じがした。

次に満濃池から四国遍路の最後の寺、屋島寺に向かった。第84霊場 屋島寺(やしまじ)は屋島の山頂にある。屋島は高松市の東、標高293メート ルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟としても知られている。屋島寺で納経を済ませ境内を回っていると、売店に香川県特産のオリーブ油が置いてあった。「オリーブ油は国内産だけでは消費をまかなえないので、スペインなどから輸入してブレンドしているが、この商品は香川県多度津の純粋オリーブです」と店のおばさんが愛想よく勧める。真野さんの奥さんが紹介してくれた小豆島のオリーブも置いてあったが、「これも有名でいいけれど、多度津のオリーブが絶対お勧め」というおばさんの言葉を信じ、多度津のオリーブ 油を買い求めることにした。そのあと屋島を散策をした。屋島からは高松方面や小豆島、屋島の溶岩台地がよく望めた。
時刻はすでに18時を過ぎ、瀬戸内海に日が沈もうとしていたので、家にこれから帰途につく旨の連絡をいれ、さぬきのスーパーで讃岐うどんを買い帰路についた。途中淡路のSAで淡路産の玉ねぎカレーを食べ、10日間の四国の旅を終えた。

 

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