伊豆下田巡検旅行(12/6-8)

  先月の和歌山に続く地学散歩。今回は伊豆・下田周辺のジオサイトを見学した。また下田に行く途中の韮山には、激動の幕末に日本の海防の礎を築いた江川英龍の生家もあるので、そこに立ち寄った。(江川英龍はNHKの「英雄たちの選択」でも取り上げられている) 幸い3日間とも天気に恵まれ、春のように暖かい伊豆を旅することができた。

12月6日(日) 伊豆韮山周辺

・旧江川邸と江川英龍(ひでたつ)

江川家は42代900年続く源氏の末裔。保元の乱で破れ伊豆へ。北条氏に仕えたのち、江戸時代は273年間、11代にわたり天領伊豆韮山の代官を務めた。特に36代江川太郎左衛門英龍(坦庵)は名代官として知られている。

英龍が代官だった当時の国内事情は外国船の渡来が頻繁にあり、江川は国防の必要性をつよく感じていた。そこで沿岸防備や農兵制度、西洋砲術の訓練、銃砲鋳造のための反射炉製造の必要性など、明治維新を先取りした数多くの建議案を幕府に建白し、その計画を実行した。また書画、詩作、工芸品などにも秀でていた。

▼甲斐の国で百姓一揆が発生した際、現地を検分するため家来とともに身分を偽って出かけた際の図。江川自らが現場で事実を確認し、現地の役人の不正をただし一揆を鎮静化。領民から「世直し江川大明神」とあがめられた。

 

▼林子平の開国兵談

本書は日本を四方を海に囲まれた島国、すなわち「海国」として捉え、外国勢力を撃退するには近代的な火力を備えた海軍の充実と、全国的な沿岸砲台の建設が無ければ不可能であると説いている。江川英龍はこの本を何度も読み返したいう。

▼英龍が幕府に提出した建白書類

▼江川家の土間。広さは約50坪。かつては江川というお酒(銘酒)を作っていた。

▼室町時代に造られたという江川家の庭

参考:

韮山代官所、 江川英龍

韮山が生んだ幕末の巨人~江川英龍


韮山の反射炉

韮山反射炉は江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させた。反射炉とは、金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山の炉は実際に稼働した炉として国内で唯一現存するもの。世界遺産に認定登録されている。

▼反射炉はレンガ等の劣化が激しいため、今年から来年秋にかけて修復保存工事中。そのため煙突の全体像は養生シートに覆われ見ることができなかった。

▼反射炉内部

反射炉は外側が伊豆石(凝灰岩石材)、内部は耐火煉瓦(伊豆天城山産出の火山灰で焼かれた)のアーチ積となっている。炭火で温度を上げたのちコークスを燃やし、その輻射熱を反射させて温度を1500-1800Cにあげ鉄を溶かす。溶かした鉄は出口から流れ、縦に固定された大砲の型に流れ込むようになっている。煙突の高さは15.7m。煙突が高いのは燃焼時にふいごの役割(自然送風)を確保するため。

▼出来上がった大砲の塊は、水車の力で大砲を回し、先端から鋼の歯で穴を空けていく。砲芯をくりぬくには約40日程要していた。全部で127本の大砲を作り4本が良品として江戸湾のお台場に設置された。また、くりぬきに失敗した不良の大砲も、敵を欺くために据えられたとのこと。

参考資料:

反射炉と大砲

「韮山反射炉」構造と歴史


丹那断層

続いて函南町にある丹那断層に向かった。丹那断層は伊豆半島北部を南北に走る断層。丹那断層を有名にしたのが、1930年(昭和5年)11月26日に発生した「北伊豆地震」。マグニチュード7.5、最大震度6の地震は、地表に2メートル以上の明瞭な食い違いを生じさせた。当時掘削中だった東海道本線の丹那トンネルの坑道にもずれが生じた。

丹那断層の位置

丹那断層公園

丹那盆地の南端には、昭和10年に国の特別天然記念物に指定された丹那断層公園がある。公園には深さ2m程度の長方形のトレンチが掘られ,断層の地下断面を観察できる観察館も併設されている。

 

▼断層により、円状の石の配列が水平方向に2mほどずれている

▼水路の位置が向かって左側に2mほどずれている。

▼地下観察室では断層の断面が見られる。

火雷神社の「鳥居と石段の食い違い」

断層の線上、田代盆地の西側の縁にある火雷神社では、神社の石段と入り口の鳥居の間を丹那断層が貫いているため、地震に伴い、石段の正面にあった鳥居が大幅にずれてしまった。現在もその様子が当時のままの状態で保存されている。

参考:丹那断層見学ガイド



12月7日(月) 下田周辺ジオサイト

当初の計画では「逢ヶ浜(おうのはま)の放射状節理」、「龍宮窟の地層」を見る予定だったが、ジオサイトをじっくり観察するため上記サイトの見学を割愛し、まず市内でペリーロード等を散策した。

・ペリーロード

▼ペリー上陸の碑

▼日蓮宗宗了仙寺
日米和親条約の付属条約、下田条約が締結された場としても知られる。

参考:黒船来航からの流れ

▼ペリーロード

黒船により来航したペリー提督一行が、了仙寺で日米和親条約付録下田条約締結のために行進した道。かつて出船入船三千隻とうたわれた港町下田の花柳界の面影を残している。

▼伊豆石(凝灰岩)を使った石造りの洋館が並んでいる。

▼下田の港

▼下田道の駅 開国下田みなと「さかなや」で大きな金目鯛を頂いた。1900円

お店の方に「きれいに食べた」と褒められました。。。


玉泉寺

玉泉寺は了仙寺と同様、歴史の教科書に登場するお寺。安政3年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが下田に着任し、玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設した。

▼ディアナ号乗組員墓地
玉泉寺の裏にはディアナ号乗組員の墓地がある。ロシア使節プチャーチンが乗ったディアナ号は、1845年12月11日の安政の大地震による津波で大破。その修理のために戸田に向かう途中、沈没した。


弁天島の斜交層理(下田市柿崎)

玉泉寺の向かいにある弁天島。昔は島だったが今は道路でつながっている。吉田松陰は、金子重輔と共にこの弁天島のほこらに身を隠して、1854年4月24日の夜、米艦ポーハタン号に密航を試みたことでも有名。地学的には明瞭な斜交層理が観察できる。

▼斜交層理

斜めに交差する縞模様は斜交層理と呼ばれ、当時の海流の向きを推定できる。

▼吉田松陰らが身を隠したといわれる海食洞窟。


・恵比寿島

続いて須崎にある恵比寿島に向かった。島を一周する遊歩道には、軽石や火山灰が作る美しい縞模様や、荒々しい水底土石流など、太古の海底火山の名残が残っている。地殻変動によって少し傾いた地層は、遊歩道に沿ってつぎつぎと姿を変え、楽しいジオ散歩を楽しむことができる。(伊豆ジオサイトの紹介より)

▼凝灰質砂岩

▼安山岩質の火山岩塊を主体とする火山角礫岩

▼千畳敷と称される波食台(凝灰質砂岩)

参考資料:

太古の海底火山の痕跡を観察(下田市須崎:恵比須島)

恵比須島


・爪木崎の柱状節理

須崎の御用邸の横を抜けると爪木崎があり、その西側の海岸には「俵磯」と呼ばれる「柱状節理」が広がっている。これはマグマや溶岩が冷え固まる時に体積が縮むためにできるもので、爪木崎の柱状節理は、海底火山の噴火でたまった地層の面に沿ってマグマが入り込んでできた「シル」と呼ばれる岩体の中にできたもの(伊豆ジオサイトの説明より)

 

▼海岸には柱状節理を構成する玄武岩に混ざって、角礫岩、凝灰岩の石も転がっている。

▼爪木崎灯台から大島・伊豆七島を望む

▼爪木崎は野水仙の群生地としても有名

▼アロエの花も満開

参考

爪木崎の柱状節理(下田市)

爪木崎の俵磯



12月8日(火)城ケ崎海岸 大室山

・城ヶ崎海岸

かんのん浜のポットホール

今回のジオツアーの目玉は城ヶ崎海岸のポットホール。ポットホールとは、岩の窪みや裂け目に入り込んだ石が、打ち寄せる波によって転がり、岩を削って出来た丸い穴。ポットホール自体は珍しいものではないが、城ヶ崎のものは穴との隙間が無いくらいに石が大きく、しかも真球に近いのが最大の特徴。伊東市の天然記念物に指定されている。

ポットホールは波打ち際の危険な崖付近にあるため、遊歩道や案内標識は整備されておらず、ツアーガイドが同行するようだ。そこでネットで場所を特定できる記事を検索し、浜に向かった。ネット情報にしたがって、下記写真の中央の松林の右端の松に向かって崖を登り、その先端に行くと上から真球のポットホールが確認できた。

 

▼さらに崖を回り込んでポットホールに近づき、打ち寄せる波で石が動く様子を撮影した。

▼撮った動画がこちら↓

真球の大きさは直径70㎝程。波が高い日は石が何度も転がって均等に削れ、長い年月をかけて真球になったのだろう。自然の造形美は凄い!

▼かんのん浜では塊状の溶岩流に挟まれる板状節理も見られた。

▼ポットホールを観察後、いがいが根の岬に来ると、かんのん浜の崖の上では、ジオツアーの一行がガイドさんからポットホールの説明を受けているのがうかがえた。

ポットホールへの行き方マップ:

参考ネット情報:かんのん浜ポットホールを求めて


・城ケ崎海岸 いがいが根

「いがいが根」では約4000年前の大室山の噴火によって流れ出した溶岩流が平たく広がり、起伏の少ないテーブル状になった地形がみられる。平たく広がった溶岩の表面には、溶岩が流れる際に、先に冷え固まった表面の「皮」が砕かれてできたクリンカー(いがいが)が広がっている。(伊豆ジオサイト説明より)


・城ケ崎海岸 橋立の溶岩流-大淀・小淀

ポットホールを見た後、城ケ崎海岸の橋立の吊り橋に向かう。

▼吊り橋からは大室山の溶岩流が造りだした玄武岩の柱状節理が見える。

▼吊り橋の近くにある岬から急な下り坂を降りると見事な柱状節理が広がっている。爪木崎の柱状節理と比較すると、節理の径が大きい。こちらのほうが溶岩がゆっくり冷え固まったからであろうか。

水中時破砕溶岩

玄武岩質溶岩の場合には,水: 溶岩の比がおおよそ3:10の時に両者が最も激しく反応するとされており、溶岩が破砕されてバラバラにされる。このようにして水冷破砕された溶岩を水中自破砕溶岩という。

参考資料:神奈川地学会・伊東市のジオサイト巡検「火山がつくった伊東の大地」


・大室山

地学散歩の最後は大室山の登山。しかし当日はリフトが定期点検でお休み。大室山は景観保護のため歩いて登ることが禁止されているので、仕方なく麓から山を眺めた。

▼さくらの里からの大室山。三波川桜が開花していた。

▼大室山のスコリア丘のでき方

▼スコリアラフト(スコリアの筏)

麓にはスコリアラフトの大きな岩がある。スコリアラフトとは、スコリア(噴出溶岩のしぶきが軽石になったもの)を溶岩が包みこんだ大きな塊で、大室山噴火の際、山の側面に積もった軽石が、溶岩流に乗って運ばれたもの。溶岩の中に軽石・火山灰がつまっている。

 

・大室山リフト乗り場駐車場の横のテフラ(火山灰層)

▼伊豆諸島・神津島天上山で西暦838年に起きた噴火による火山灰が大室山をおおっている。リフト乗り場駐車場の横の道路わきに水平に入っている白い筋(火山灰層)が観察できた。

平安時代に起こったこの噴火は規模が大きく、約80kmも離れたこの場所に火山灰を降り積もらせた。上下の黒い地層は「黒ボク土」と呼ばれる、有機物を多く含む土壌である。(伊豆ジオパーク資料より)

松島信幸先生によると、伊那谷でも御岳山の爆発による火山灰層が見られたが、そのほとんどの露頭は構造物や植物で覆われ、現在は観察不能とのこと()。
幸いこの場所は切り通しのままになっており保存状態も良い。

参考資料

さくらの里にある大室山噴火を物語る溶岩トンネル

リフト乗り場の駐車場横の地層

まとめ

3日間の伊豆の地学散歩はあっという間に終わった。今回はツアーの目玉であるポットホールも見ることができ満足。ただし、前回の和歌山の地学散歩同様、調べれば調べるほど知りたいこと、観察・確認しておくべきだったことが後になって出てきてしまう。
今年の地学散歩は今回で終了だが、来年からは一度に訪問するジオサイトの数を絞り、対象をじっくり観察するようにしたい。しかし、遠いところにはめったに来れないと思うと全部見ておこうと計画してしまう。まるで昔の日本のパッケージ旅行だ。やはり貧乏性の性格ゆえか・・・。

カテゴリー: 歳時記 パーマリンク

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