京都~安土・関ヶ原の旅(第3日目)

今年は江戸時代の画家、伊藤若冲の生誕300年にちなんで、各地で展示会が行なわれている。
ちょうどこの時期、京都市美術館で「若冲の京都」をやっており、また、かねてより一度は京都の紅葉を見ておきたいと思っていたので、11月23日の休日にフレックス休日をつけて、京都~安土・関ヶ原を回ることにした。

11月26日
旅の最終日は安土、関ヶ原の史跡巡りにあてた。

安土城
菩提寺PAを7時過ぎに出発し、まず安土城に向かった。城には開門時間の8:30前に着いたので誰もいない。困ったなあと思っているとちょうど管理人さんが登城し、時間前だが門を開けてくれた。
安土城跡は2代将軍徳川秀忠が「摠見寺」に支配権を認めたことにより、安土山全体が摠見寺の持ち物となり、その後そのままの状態で残されてきた。平成元年から20年計画で発掘調査と環境整備が行われ、次第にその姿が明らかにされてきた。現在の正面ルートの大手道の石段も発掘により発見されている。

巨大な天守閣がそびえる総石垣造りの城を、わずか3年の極めて短時間の工期で築いたと思うと、織田信長の支配勢力の絶大さや、また当時の建築技術の高さが伺えた。城の石垣は、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のように木々で覆われ、廃城から400年という歳月の長さを感じた。

安土城からすぐ近くの安土城考古博物館で、安土城の歴史や、琵琶湖周辺の弥生時代からの遺跡から発掘された銅鐸などを見て、琵琶湖-米原経由で関ヶ原に向かった。

関ヶ原
13:45に関ヶ原歴史民族資料館到着。
資料館で関ヶ原の戦いの展示を見た後、石田光成の陣跡の笹山を基点に、西軍の各武将の陣跡を回った。関ヶ原の戦いは何度もTVで紹介されるているが、正直、東軍、西軍がどのような地形に、どのように陣取ったのかイメージがつかめなかった。しかし、百聞は一見にしかずで、今回現地を訪れてよく理解できた。

関ヶ原は、西から東に向かって緩い下りの傾斜になっており、西軍は東軍を見下ろして戦う拡翼の陣形をとっている。小早川秀秋の松尾山は、戦場の南側に位置し、東西軍の戦いの形勢をよく見ることができる。史実によれば当初は西軍が有利に戦をしていたから、松尾山の秀秋も徳川の諜略に従っていたとはいえ、本当に東軍に味方してよいものか最後まで迷っただろう。

陣跡を探しながら回っていたら時刻は16時を過ぎ、日も落ちたので、残念ながら今回は松尾山に登ることは断念し、小早川が攻めた西軍の大谷吉継の陣とお墓を周り、帰途についた。

この3日間は、人ごみには閉口したものの、これまで知らなかった京都に触れるととともに、有名な戦国の史跡を初めて回ることができ良い旅となった。
幸い天気にも恵まれ、晩秋の車中泊は思ったほど寒くなく、近畿以西の平野であれば、冬の旅行も可能かも知れないと思った。

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