熊本藩の改革から 時習館の由来

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方夾、不亦欒乎、人不知而不慍、
不亦君子乎

【書き下し文】
子曰わく、学びて時に之(これ)を習ならう、亦(また)説(よろこば)しからず乎(や)
朋有(あり)遠方(えんぽう)より来きたる、亦(また)楽しからず乎(や)
人知らずして慍(うらみ)ず、亦(また)君子ならず乎(や)

英訳:
“To learn something and regularly practise it ― is it not a joy?

http://www5b.biglobe.ne.jp/~karate/html/sub_html.htm/study-busido/study_rongo1.htm

【解説】
子曰わくの子は先生と言う意味ですが、ここでは孔子を指しています。
学びて時に之を習うの「学び」はもちろん学問の事です。「時に習う」はほとんどの著書で「時々復習する」と訳しています。しかし時々では意味が釈然としません。
 孔子は学問を時々復習すればよい程度に軽んじているのではなく、学問こそが徳を身に付けるために不可欠なものと考えています。学問は学んだことをすぐに復習し、実践することが大切です。実践することにより書から学んだ学問が生きた学問となり、学問が身に付いたことが実感出来ます。ですから「時に習う」の時は時々ではなく「時に応じて」と訳すのが正しいと思います。常に復習し、時に応じて(必要に応じて)実践する。実践することにより生きた学問となり、より理解が深まり、そうすることにより自分の身に付く。と訳した方が正しいと思います。
「亦た説ばし【注三】からず乎」一生懸命勉強し身に付けた知識が、実践することにより世の中の役に立つという事が実感出来た時、それこそが人生のよろこびではないか。
 「朋有り遠方より来る」の朋はもちろん友人のことも指しますが、この場合には友人とは限りません、学問に対して同じ志を持つ人を指します。同じ志を持つ人がわざわざ遠方から訪ねてきて学問について語り合い、時には意気投合し時には激論を交わし共に切磋琢磨する。そうして新たな考えを導き出す。「亦楽し【注四】からず乎」なんと愉快で楽しいことではないか。
 「人知らずしてうら慍みず【注五】」学問の道は人に認められる為にするのではないから、世間が認めてくれないからといって人を恨んだり、天をとがめたりせず、そんなことは気にしないでただ自分を磨く為に勉学に励む。「亦た君子(くんし)ならず乎」 それでこそ君子ではないか。 といった意味です。
 この文章の特徴は、「亦た説ばしからず乎」「亦楽しからず乎」「亦た君子(し )ならず乎」などと先ず、同じような反問的な言い方を並べ読む人に心地よいリズム感と、文章の力強さを感じさせている事だと思います。
 「不」と言った相手に強く同意を促す言葉を「亦」と言う語調を穏やかにする助字を用いて全体を明るく軽やかに弾むような文章にしています。 どうだよろこ悦ばしい事とは思わないか、どうだ楽しいとは思わないか、どうだ紳士だとは思わないか、と強く相手の同意を求めながらも相手に判断する気持の余裕を与えています。こういった所が論語を読んでいて言葉の強さの中に温かさを感じる所以ではないかと思います。
【注三】「亦よろこ説ばしからずや」の説の字は、悦の古い書き方の字であり、持
続的な喜び、心の奥底からじわっと湧き上がってくるような喜びを表しています。
【注四】「亦楽しからず乎」楽の字は激しく爆発するような突然の喜びを表しています。
【注五】「人知らずして慍(うら)みず」を「人知らずして慍(いか)らず」とも読みます。
孔子は徳有る人間になるにしても、すべて「学ぶ」ことから始まる、学ぶ事により自分が成長していく楽しさを知ることが大切である。学問を身に付けたことを他人が認めるかどうかは重要ではない。徳を身に付けることが大切である。特に人の上に立つ者は学問に励み、努力し人間としての徳を身に付け、自分を律する倫理性を持たなければならないと説いています。
論語は訳五百程の文から成り立っていまが、その中には今の時代にはそぐわない部分も有ります。しかし説いている内容は人類普遍の本質を突いています。論語は読めば読む程奥が深く、生きてきた年輪に応じた解釈が生まれてきます。皆さんの是非これを機に論語を勉強してみて下さい。
瀬戸塾新聞21号掲載記事(2005,5)

 

カテゴリー: 歳時記 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です