厚木のゆりかさんの結婚披露宴に出席するがてら、水戸に立ち寄り、ブラタモリの足跡に沿って観光した。
偕楽園
9代藩主、徳川斉昭により造園
水戸家は参勤交代の対象外のため藩主は江戸城に常駐しているが、水戸に帰ってきた斉昭は、江戸のように梅が咲いていないことに失望し梅を植えさせたいう。また、水戸藩は財政的にも厳しく、植樹も有事の際役に立つ、食することのできる梅を植えさせた。
園内には100品種、3000本の梅が植えられている。弘道館で文武の修行を行い、心身の休息の場として構想された。
■偕楽園の表門
表門から園内に入ると、孟宗竹やスギ(杉)の林の中を進む道が続いている。
この道を進んでいくと、千波湖を一望する高台に位置する好文亭に至り、梅林へと到着する。
偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれている。(ブラタモリでの説明)
■吐玉泉(とぎょくせん)
偕楽園造成にあたり、その湧き水を茶室の茶の湯に供するとともに、造園上の添景を考慮し白色の泉石を据え、特殊な工法を施した湧水泉を建造したもの。 現在の泉石(常陸太田市真弓山の大理石)は昭和62年に設置。
■好文亭
斉昭が偕楽園に休憩所として建てたもの。
部屋の襖絵は四季それぞれの花が描かれており、見事
■梅林
園内には100品種、3000本の梅が植えられている。
■黄門様と・・・
大日本史
徳川光圀によって編纂が開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。
地方の歴史情報を得るために、水戸藩士が日本の史跡を駆け巡って史料を集めた。
その一人が佐々木介三郎宗淳・・・この人が時代劇の助さんのモデルとなり、水戸黄門の漫遊記の逸話になったが、光圀自身は漫遊してはいない。
弘道館
水戸藩の藩校として斉昭により創設
医学、薬学、蘭学など、幅広い学問を取り入れた。
水戸城の空堀
水戸の台地の先端に、台地の地形を利用して造られた。
現在は水郡線の線路になっている。
水戸城の骨格は、徳川の前の佐竹藩によって作られたもの。
笠原水道・水源(Wikipediaより)
1662年、水戸の町の飲料水確保のため、徳川光圀が設置を命じた。
水道設置の調査を行った平賀保秀により笠原が水道の水源として選ばれ、永田勘衛門により工事が行われた。永田は岩樋(いわひ)と銅樋(どうひ)を用いた暗渠により、全長約10kmの水道を敷設し、1663年完成した。
明治時代には竜頭共用栓が水戸の町角に数十基設置され、多くの人に利用された。
水源地である笠原水源には竜頭共用栓が復元されて設置され水道水を吐水している。
また、敷設当時の岩樋の復元模型が設置されている。
参考URL: NHKブラタモリ
コースタイム記録:
3月3日(金)
富士見発(5:30) =偕楽園着(9:00) 300㎞
偕楽園発(12:35)=弘道館着(12:50) 304㎞
弘道館発(14:55)=水戸神社着(15:15) 310㎞
水戸神社発(16:15)=アパホテル着(16:30) 313㎞
3月4日(金)
アパホテル発(7:00) =厚木着(10:00) 528㎞