飯田線秘境の旅 6/4、6/5

飯田線の天竜峡以南は、秘境鉄道として有名。
しかし地元にいながら、千代や金野といった駅の周りは行ったことがない。そこでウォーキングを兼ねて、二日にわたって秘境と呼ばれる駅から最寄りの部落までを歩いてみた。

=== 6月4日 金野駅~唐笠駅 歩行距離11㎞ ΔH=460m ===

▼金野駅から40分、約200m登ると金野部落に出る。下久堅と似たような洞に水田がある。

▼中山間地の山奥の部落の活性化を図ろうとしているが、事業の後の手入れが続かない・・・。

 

▼天竜川の峡谷を走る飯田線 (唐笠駅に下る道路から)

唐笠駅

=== 6月5日 門島駅~田本駅 歩行距離9㎞ ΔH=250m ===

▼泰阜ダム(Wikipedia)
門島には高さ50メートルの重力式コンクリートの泰阜ダムがある。木曽川の電源開発で名を上げた福澤桃介が晩年になって天竜川水系の開発に着手し、彼の死後も彼の意思を継いで、「天竜川電力」が本格的ダム式発電所である泰阜発電所・泰阜ダムの建設を開始した。1931年(昭和6年)より天竜峡の下流部に建設が開始され、1935年(昭和10年)に完成。泰阜ダムの完成に伴い、かつての名物であった天竜川の水運、いかだ下りによる木材運搬は途絶することになった。

▼飯田線 三河川合駅 – 天竜峡駅間の建設(Wikipedia)
測量には、アイヌ民族の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子トらが高給で招聘されて従事した。ところが、1929年(昭和4年)には昭和恐慌が起こり、経済情勢が急変。だが、筆頭株主が東邦電力と「天竜川電力」という電力会社で、濃くなる戦雲の中、天竜川に国内エネルギー資源開発をもくろんでいた両社は、電源開発(発電所建設など)の資材や労働力運搬のため鉄道を使用しようとして、1929年(昭和4年)8月の天竜峡駅 – 門島駅間の着工後も工事は放棄されることなく、1930年(昭和5年)には南から三河川合駅 – 出馬駅間も着工した。しかし、中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。1931年(昭和6年)からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎の工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅 – 小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年(昭和12年)である(当初より電化)。これをもって、豊川鉄道の最初の区間が開業してから40年後、現在の飯田線である吉田駅(現在の豊橋駅) – 辰野駅間は全通、直通電車が走り始めた。なお、この難工事成功の実績により、熊谷三太郎は自立に成功、戦後に熊谷組として成長する地歩を築いた。

▼ダム用の道路の横を飯田線が並行して走っている。道路にはこうした落石が頻繁にあるため、飯田線はトンネル以外にも、落石対策のコンクリートトンネルも多い。

▼門島駅から泰阜に通じる道も狭く落石が多いので、落石防止のネットが至る所に張ってある

▼門島駅から8㎞、泰阜小中学校の下に田本駅に通じる道がある。道は全くの山道で車は入れない。

急な細い山道を200m下ると、とつぜん田本駅のトンネルの上に到着する。

駅から山道を振り返る

▼田本駅には、泰阜村田本集落から山道を下るか、電車でなければ来られないので、鉄道ファンには「秘境駅」と呼ばれている。駅舎に訪問者用の記帳ノートがある。

今回初めて飯田線の周りを歩いてみたが、飯田線や天竜川水系のダム開発の歴史、あるいはブラタモリ的地理情報をベースに、物語としての南信州のトレッキングコースとして整備すると、観光商品として面白いかもしれないと思った。

カテゴリー: 歳時記 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です