下久堅ウォーキング 6/25,26

この2日間は、大陸からの高気圧が本州を覆ったので、日差しは強いが湿度は低くく、気持ちが良い天気が続いた。最近は生活のリズムの中で日常的に歩く機会が減ったので、下久堅の各部落がどのようになっているかを確かめることを目的に下久堅を歩いて回ってみた。

■6月25日 上虎岩ウォーキング 中田~嵯峨坂~大虎~暁~長久保~堤田~目名振
上虎の集落は、小学校の時に部落名を耳にしただけで、行ったことがほとんどなかった集落である。
段丘の急斜面に点在する家々は洞筋に田んぼを作り、わずかな平らなところに野菜を植えている。若い人がいるであろうと思われる家や農業で収入を得ている圃場(田んぼ・畑)は手入れされているが、その他の田畑の半分は耕作放棄地になっていた。また、ここ20年間くらいで新築された家も少なく、若い人がいないか、あるいは世帯収入が少なく、昔のままの古い家が多いように思った。

▼中田のズッキーニの栽培
比較的水はけの悪い田んぼをうまく転換して栽培をしている。洞の草刈りもして良く管理されている。

▼嵯峨坂の洞
山の斜面はヒノキを植えているが、間伐もされずに林になっている。水田は家で食べる分の稲は作っているが、その他は耕うんして雑草をなくすか、そのまま放置(廃車が草に埋まっている)という状態。

農業を営んでいる農家の田んぼは整備されている。

▼大虎、暁
下久堅のもっとも奥に位置するこの集落は耕作放棄地が多い。

過去に構造改善で整備された圃場も雑草がのびている。

トラクターや管理機も使われなくなり車庫に入ったままという感じ。

▼長久保
洞奥の田んぼでも、若い世帯が入っていると、畦の草刈りもなされ管理されているようだ。

▼堤田
上虎の中では傾斜もゆるく耕作しやすい場所ではないだろうか。ただし立地条件が良くても写真には映ってはいないが休耕田はある。

▼目名振~原の平
堤田の上(北)、目名振から原の平らに続く道には、昭和60年までに実施された農業整備事業の記念碑が立っている。3.3億円の投資は地域農家の十分なリターンにつながったのだろうか? 嘘いつわらざる事実を一度レビューし、今後の中間山地管理の課題を整理し、農家で共有する必要があるのではないだろうか?


■6月26日 下虎ウォーキング 内御堂~山越~常信院~亀平~北原~中組

上虎岩と比較して、新しい家が多い。河岸段丘の中段は下久堅小学校とほぼ同じ高度で、学校からの通学距離も短いこと、また通勤エリア、飯田のショッピングエリアまで近く、さらに眺望も開けているので住みやすい環境にあるといえる。そのため新築された家が多い。
耕作地は決して広いとは言えないが、洞ではないので住民の土地管理の負荷が軽く、生活のメリットになっていると思われる。
集落の檀家寺、常信院は、住職も修行・精進に励む方なので住民=檀徒からも信頼を得ている。新築が多いということは、檀家の数も増えることはあっても減ることはないので、寺を維持する上でも好循環となっているように感じた。

▼常信院

 ▼常信院下からの眺望

▼明神神社 急傾斜に立地しているがよく整備されている。写真には映っていないが虎岩学校跡地の石碑もあった。

▼亀平の坂
旧い母屋の横、あるいはその棟の続きに新居が立ち、世帯交代=家の継続が進んでいるように思われる。坂に立地する田んぼは耕作環境はそれほど良くないが管理されている。

▼「かいとだ」の田んぼを臨む
小渋水系の水を引いて構造改善で田んぼを作っているが、一部休耕田になっている。

▼山越から小学校のある知久平を臨む

■下久堅を歩いて感じたこと
昭和~平成にかけて農業振興の補助金や予算が投入されたが、平成の30年間は、農産物の自由化による農業収入の低下と農業の担い手の高齢化というトレンドの中で、圃場運営・管理は難しくなり、中山間地は荒廃が進んでいる。企業経営で例えれば、過去(昭和)の”勢い”で農業に投資された資本は、目標が不明確で財を生むことなく無駄になったという感じである。高度成長以降の日本の農産業をどのようにしていくのか、省庁の垣根を越えたビジョンやグランドデザインがない中で、ちぐはぐな政策が今を生み出しているように思う。そして、今日現在も「令和になって新しい時代なった」と言っているだけで、住民の間で未来のビジョンやビジョン実現にむけての課題の共有化がなされていないように思う。
ただし、飯田・下伊那の中には、泰阜村のヌーベルファームのように未来を見据えてチャレンジしている企業・人もいるだろうから、今後は機会をみてそんなケースを発掘してみたいと思った。

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